玉尼様から聞いたお話ですが、霊体は必ず存在します。霊体はアンテナのようなものから、肉体の脳とつながります。波動、電波のような形で存在し、それぞれの肉体にひとつの霊体がいます。これら肉体と霊体は二つでひとつです。
肉体は霊体のためのものであって、前世でどのような生き方をしたのかによって、現世での肉体の役目が決まってきます。肉体が霊体の希望する方向へ向いたときに、肉体は始めて満足できるようです。霊体の希望と反対の生き方を肉体がすれば、心の満足は得られません。
いつも「このままでは、何かをしなければ・・・・」と心が餓鬼状態になります。
母の胎内から生み出された瞬間に、霊体は前世の記憶をなくし、肉体の「無」である赤ん坊と同じくゼロから出発します。6歳になったとき肉体は「物心ついた」状態になります。その時、霊体は分かりやすくいうと一気に子どもから成長して大人(意識レベルでの成人)になります。
前世の生き様によって、この肉体の役目を認識します。霊体は母の胎内を出た後、6年間だけ子どもの時期があると理解してください。そしてこの肉体が今からどう生きていくかということが決まり、それを霊体が肉体に教えていきます。その教え方は”思いつき”、”ひらめき”という人間の感覚で、肉体は受け取ることができます。
霊体と肉体との関係をアンテナでたとえますと、アンテナの数が多い人ほど、運気が強いといえましょう。霊体は母の胎内で肉体ができはじめて3ヶ月ごろに、生まれ変わってもよい霊体が、その子を選んで肉体に入ります。したがって3ヶ月までの水子は、肉体だけで、霊体はまだ入っていませんので、このような流産は水子供養する必要はありません。
しかし、母の胎内から出たとき、不幸にも死んで生まれたときなどの場合には、霊体はこの世でお地蔵様に6年間守られ、その後大人になるのを待ち、大人の霊体になって帰ります。霊体が入っているため、3ヶ月以上の水子、死産の子はお地蔵様に「どうか6年間は私の変わりにこの子をお守りください」と心で願うことにより通じます。
人間の肉体は、その肉体の持つ染色体によって、性格や病気を脈脈と受け継ぎます。一方、霊体はいただいたひとつひとつの肉体の生き様を受け継いで、次の肉体での役目を果たそうとします。
この肉体と霊体が二つでひとつなのです。肉体は必ず、誕生してから死に向かっています。
昔は、霊体の思う方向に肉体が動いていたのですが、この何百年間は肉体が霊体のアンテナを切り、勝手に一人歩きしているのです。今、この世で命をいただいた肉体の生き方によって子孫の幸、不幸が決まるのです。肉体が死んだときに、右の耳とこめかみの間にある装置が作動して、肉体と霊体が分離するそうです。この世で肉体をいただいて誕生し、死亡して幽体離脱した霊体は、その肉体の思いのまま、この現世にとどまることができます。
子を思い、親を思い、恋人を思うその思い、憎しみ、など全てこの世に思いが残っていると霊界には帰れません。霊界に帰るためには肉体が生きている間に、何かの宗教によって五欲を断ち切ることが早くできるほど、早く霊界に帰ることができます。また霊界に帰るためには、その霊体の「帰る」という思いだけで、霊界に帰ることができます。仏教のお経は”まじない”ではなく「肉体がなくなった今、早く霊界に帰りなさい。霊界はとてもすばらしいところですよ」と霊界のすばらしい様々な様子を説明しているのがお経です。
法華経のように霊体ではなく、肉体が生きているときに使う知恵、道徳、倫理を書いているお経もあります。肉体というのは肉体という一生で終わってしまうが、霊体は次々と肉体をいただいて次々と修行していくのです。その霊体に呼びかける話もまた、お経には書いてあります。
お釈迦様が弟子から質問を受けたことにたいする答え、また民衆のまえで行った講和、説法が、後の世で語り継がれてきたものを文章に表したのがお経です。
生まれ変わらずに、霊界にとどまるためには、仏門に入るか、学問、教養を身につけ、それを実践することです。それでも一体ではなく、五体、六体と生まれ変わって、はじめて霊界にとどまることができるのです。在家で五欲がある限り、霊界に帰ってもまた生まれ変わって勉強を繰り返すのが、今の人間の世界です。
現在いろいろな仏教の宗派がありますが、すべてお釈迦様が説法されたもので、千年の後に「このようにお聞きしました」と言うお話を語り継いだものがお経です。
どのお経も全て、人間にとって同じ尊さを持っています。前世からのご縁で、現世の肉体が出会った宗教を大切になさりながら、学問として他宗を受け入れてください。”こだわり”は無学なのです。書物によって他宗を学び、様々な宗派、宗教の知恵を受け入れてください。
肉体がなくなった後、霊体は霊界からのお迎えの光とともに現れる神様、仏様、肉親(すでに亡くなっている)の出迎えがあるそうです。この神様、仏様のお姿というのは、肉体が生きている間に学んだ学問、宗教から心の中に描いた方々が見えます。霊体は電波のような波動です。生きている間に肉体が心の中で想念としてつくりあげた神様、仏様が見えるのです。(私のような離脱したものが見えるのも、眼球の瞳をレンズとして網膜に映る映像を見るのではなくて、心の中の思いとして見えます。みんなに分かりやすくたとえばで説明すると、それぞれの人が目を瞑るとそれぞれの海、山が浮かぶでしょう。そのように見えるのです。)
肉体がなくなった後、49日の間、7日ごとにお経を上げるのは「肉体がなくなったのだから早く霊界に帰りなさいよ」と、解いて聞かせてあげるのです。
それでも霊界に帰らずにとどまっている霊のために、法事をすることによって、霊界に帰ることを教えます。
この世で肉体を通過した霊体は俗にいう、”足がない”のです。霊体は波動ですが、自由に電波のように飛ぶことができません。誰かの波動と重なって動くことを”憑依”といいます。
霊界には時間、空間は存在しないそうです。帰りたくても帰れない霊体もたくさんあるそうです。私は人間を助けるのではなくて、”霊助け”が本当の役目のようです。50年を越えた真っ暗闇の霊体には、私が黄金の仏像に見えるそうです。私の後ろが霊界で、私を通して霊界に帰すことができるそうです。様々な宗教でいろいろな信仰をなさった方は、銀色に光って見えるそうです。50年を越えた真っ暗闇の中の霊体は、針の穴程の光にさえすがりついてくるそうです。だから、金色・銀色に輝く信仰深い人々にすがりついてくるのです。でも、銀色の光の後ろには霊界は繋がっていないのです。霊界に繋がっていないそのような人は、信仰するお寺などに行って、「ここから霊界に帰りなさい」と教えるか、仏教であればお経を唱えてあげてください。そのさまよっている霊体はお寺、教会にとどまり、お迎えの光を待つことができます。
50年間もこの世にとどまっているほどの霊を家につれて帰ると、その霊体のいろいろな思いが人間の家族を邪魔します。「霊までも助けることができる」というおごりが家庭をめちゃくちゃにしてしまいます。信仰することはすばらしいことですが、霊まで助けるというのではなく、信仰する寺院・教会から帰ってもらうようにしてください。
霊界に帰ると天国、地獄と分けてはいません。その霊体が生きてきた生き様や思いによって、天国にもなり地獄にもなるのです。徳を積んだ人は光る玉を霊界にもって帰ります。その光があたたかく、天国にもなりましょう。肉体がないということは五欲もないということです。肉体があったときの思いや、未練が断ち切れて、悟りに入っていくことができます。霊体によって霊界にいる期間は様々です。”生まれ変わってもよい”ということで霊界からこの世に降りてきます。そして、また肉体に入り・・・これが輪廻転生ということで繰り返します。
霊体がたどり着いたあの世と、この世は遠くでもあり、目の前の近くでもあります。霊界への窓口は、お寺であり、お墓、仏壇という形のあるものから、目を瞑り両手を合わせて先祖を思うことも然りです。仏像、位牌、お墓などはテレビ局のカメラと思ってください。霊界にテレビがあります。この世で先祖に手を合わせたとき、カメラから映し出されるあなた方の姿が霊界に映し出されると思ってください。ろうそくが照明で、線香はマイクです。
一族の先祖は、霊界で、テレビに映る子孫の姿をいつも見守っています。”生まれ変わってもよい”ということでこの世に降りる先祖が、霊界でテレビに映る「この子肩に乗って見守ってやろう」とするときこれは守護霊になります。霊界から”生まれ変わってもよい”ということで降りてきた霊体は、予知能力があり、時間・空間がなく、瞬間的に移動しうる能力を持っています。この守護霊が、自分の霊と重なって二つの霊体となり、予知能力が強くなり、”ひらめき”、”思いつき”が強くなって、運気の強い人になります。この守護霊もいずれ生まれ変わって、また霊界に帰っていく輪廻転生を繰り返すのです。
霊界に帰った後、新しい肉体をいただいて生まれ変わってきた場合、前の肉体が死亡した時の位牌なりお墓は、子孫にとっても生まれ変わった霊体にとっても必要ないものになっています。なぜなら、生まれ変わったのですから霊界とこの世をつなぐものはもう必要ないのです。しかし、普通の人間には、位牌、お墓がもう必要なくなったかどうか分かりません。
私が様々な仏壇やお墓に参りましたときに「まだ位牌やお墓のなかでとどまって、霊界には帰っていません」と聞こえる位牌やお墓もございます。また、霊界から生まれ変わってきていないので「この位牌がカメラの役目をしています」と聞こえるときもございます。したがって、50年の法要を終えるまでは位牌やお墓は大切にしてあげるべきだと思われます。
生まれ変わるとき、できるだけ自分の子孫に生まれ変わりたいと思うのは、霊体全ての思いです。特に、徳を積んで光の玉を持った霊体は、自分の子孫にその徳を与えたいと思うのです。しかし、前世で五欲をむさぼったために、次は償いの人生を与えられた霊体は、自分の子孫より、先祖が生まれ変わりたくない腹の子をお借りして、償いの人生を送ろうとするそうです。霊体になっても、霊界で一族は、親族というより、先祖までさかのぼって広い意味での一族となって集まっています。そして、夫婦円満な一族は、「同じ様な一族と我が一族をあわせたい」とはたらきます。反対に、様々な離婚、自殺、姦通など・・・五欲をむさぼった一族は、円満な一族との縁組を望んでも受け入れられずに、同じ修行同士の組み合わせとなります。
生きているときの、生き方によって、その生き様が三代後の子孫の幸、不幸を作るのです。償いの霊体をいただいた肉体も、この霊体の修行(肉体が原因ではなく、次々とおこる出来事)から逃げずにひとつずつひとつずつ(夢、希望をもって)克服していきますと、50歳を境に、それまで生きてきた50年間のご褒美の人生に入ることができます。そして、そのご褒美を素直に喜びとして受け入れていきますと、来世はご褒美の人生となりましょう。ご褒美の人生をいただいた肉体が前世からのご褒美、徳をむさぼりますと、老後、心が餓鬼状態となり、五欲をむさぼった末、来世が償いの人生となりましょう。しかし、徳積みのご褒美の人生をいただいた霊体は「この幸せを孫子にまで残したい」と施しの人生を歩めば、その霊体は格があがっていくことになるのです。